『地球の長い午後』2日目

こんにちは!太眉です。

昨日の続きで、ロバート・A・ハインラインの『地球の長い午後』の面白ポイントを紹介します。

今日紹介する面白ポイントは、人類の死にまつわる文化です。

作中に出てくる人類は、木の上で生活しています。木の上といっても、大陸を覆うほど巨大なベンガルボダイジュの中腹です。ですから、空も地面も見えません。恐らく彼らの視界は濃淡の差はあれど、緑一色で構成されています。

そんな彼らは、「死ぬこと」を「緑に落ちる」と表現します。物語の中で何人もの人類が死んでしまいます。その死因はほとんど植物に捕食されてしまうことです。突然、体に緑のツルが巻き付き恐ろしい速さで葉と葉の間に連れ去られたり、枝から落下して下層を飛んでいるトビエイに空中でパクっとされてしまったりです。

現代を生きる私たちは、殺されることを「殺人鬼の凶刃に倒れる」とか「熊の餌食になる」とか表現することがあります。こんな表現をするのは、殺人鬼なり熊なりをはっきり視認出来ているからこそです。一方、作中の人類は、自分たちに襲い掛かってくる植物と背景となる植物とを、はっきり区別できません。なぜなら、両方とも緑だからです。そんな中で仲間が死んでいくのを目の当たりにした人類は、仲間が緑の中に消えていく、落ちていくようなイメージを持つのだと思います。「緑に落ちる」という表現は、彼らが「死」を思い浮かべたときにイメージする情景がよく反映されたものだと思います。読者として、とても納得感があります。

次に彼らのお葬式についてです。人類は上記のような死に方をするため、遺体は手元に残りません。そこで、彼らは遺体の代わりに木像を使い、独特なお葬式をします。

木像は「魂」と呼ばれ、自分の家の中に安置してあります。彼らにとって家は特別な場所です。子供をつくるときと、その家の住民が緑に落ちてしまったとき以外は、誰も他人の家に入ってはいけない掟になっています。

誰かが緑に落ちると、その者の家に行って「魂」を取ってきて、ベンガルボダイジュを登ります。そして、頂上まで来たらツナワタリを探します。そして、ツナワタリにそーっと近づき、脚に「魂」を括りつけます。こうすることで、「魂」はツナワタリの脚にくっついて月にたどり着きます。木像=魂、月=天国という世界観を彼らは持っているのです。

太眉はこのお葬式の方法に、とても納得しました。彼らは、ツナワタリが上へ上へと昇っていく様子を見て、その先に未知の世界や理想の世界を想像したのだと思います。出生と生活をする場である家の中に「魂」を置く気持ちもわかります。これは、遺体が残らないから代替品が必要で、置き場所として外的からの安全が確保されている家が適当だという、現実的な要請に応えた習わしでもあるのだと思います。

今作の人類の「死」にまつわる文化は、作品全体に現実味を持たせるのに一役買っています。SF小説は、設定や登場する生き物が我々から見たら突飛であるため、物語に入り込めない、没入できないことがあります。でも、そんなときに納得できる箇所が一つでもあると、それが現代と未来を繋ぐ架け橋になって、途端に入り込みやすくなるんです。今作でいうところの架け橋は間違いなく、「緑に落ちる」と「魂」です。

以上で太眉の『地球の長い午後』の面白ポイント紹介は終わりです。この本を読んだことがある方は「あれ?アミガサダケに全く触れないの?」と思うでしょう。そうなんです。正直、太眉はこの小説の全編を理解できていません。だから、アミガサダケが主人公に与えた「知性」が何なのか、その恩恵と害悪は何なのか、掴めていません。また、気が向いたら読み直そうと思います。

全く関係ない話ですが、今日友人からビワを貰いました。友人が小学生の頃に給食で出たビワを庭に蒔いたのが始まりで、今は二階建ての家と同じくらいの高さにまで成長し、毎年実を付けています。それを、今年もくれました。ありがとう!

甘くておいしかったです。

今日は以上です!ありがとうございました!

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