『夜と霧』を読んで、「神社と同じだー」と思った話

こんにちは!太眉です!

今、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読み終わりました。

読んでまず思ったのは、残虐表現が少ないなーということです。太眉は、人間石鹼の話や人体実験の話が出てくるんだろうなーと思っていたので、意外でした。インパクトのあるエピソードが紹介されない理由は、次の2点でしょう。著者が心理学者であること。この本の目的が、収容所での生活の科学的な解明と、被収容者が自身の体験を理解可能なものにすることであること。

太眉が印象に残った言葉は、p129「私たちが生きることからなにかを期待するかではなく、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題である。」です。

このページの前では、収容所内で死ぬのは体力消耗やケガ、病気でではなく、自己放棄によってである。自己の肉体も感性も放棄した人は、起床の笛が鳴っても叩かれても、ただただ横になっているだけです。

こうなってしまう人には、兆候があるそうです。「生きていることになんにも期待がもてない」と口にすることです。

この言葉、引きこもりの人の言葉に似てませんか?

実際、著者は失業者の心理との共通点を指摘しています。被収容者も失業者も暫定的な存在です。いつまで、今の状況が続くのかわからない境遇です。だから、見通しが立てられず、目的が持てず、未来を見据えて存在できない。

今の状況がすぐに終わってしまうときって、やる気になりますよね。太眉は、部活の最後の試合前の週とか、小テスト前の復習タイムとかすごい集中してましたし、楽しかったです。その一方で、夏休み中の部活とか、受験勉強ってやる気でませんよね。別に今やらなくてもいいかーなんて考えて、ダラダラしてしまって、連休早く終わんねーかなーと考える。

この「早く終わんねーかなー」。「いつまで収容されるかわかんないし、別に今耐えたってまた明日が来ちゃうし、早く俺の人生終わらねーかなー。」という被収容者の心理と似てませんか。

で、本題です。

p129「私たちが生きることからなにかを期待するかではなく、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題である。」の話です。

太眉は、これを読んだときに神社を参拝するときの心得と似ているなと思いました。

神道のご神体は鏡です。これが表す意味は、「神社は人が神様に願いを言いに来るところではないです。その逆で、神様の願いを人が聞き取りに来るところである」ということです。

では、太眉の人生は太眉になにを望んでいるんでしょうか。読書、狩猟、友達をご飯食べる、、、そんな感じのことが思いつきますねー

夜霧の話は終わりです。

いよいよ簿記の試験が1か月を切りました。やばい!!まだ全講義見終わってない!!!

やります。おやすみーー

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